ここ数週間の関心は、哲学、宗教、仏教などである。
Instagramにも投稿した内容と重なるが、『僕は、死なない。』という本を読んで感じたことを書き留めておきたい。
『僕は、死なない。』を読んで
本書は刀根さんというステージ4の末期がんになった方がサレンダーという状態になって、がんを見事に克服した体験について書かれている。刀根さんは『老子道徳教』を愛読書として紹介されており、がんに対して全力を尽くした後に訪れたサレンダー(明け渡し)がまさに道(タオ、Tao)の状態と同じだと表現されている。全体的にスピリチュアルな内容も多く含んでいたが、後半の内容はとても良かった。
明け渡しとは手放すことだから、手放すべき自我(エゴ)が弱いと、明け渡しも弱くなってしまう。強い自我(エゴ)、強い執着、強いしがみつき、それを手放す。つまりそのギャップが大きければ大きいほど、明け渡し、サレンダーがどういうものがを強く体験できるんだと思う。
P323
ポジティブを強く意識すればするほど、ネガティブも強くなる。ポジティブとネガティブは同じエネルギーの両端。僕は強くポジティブを意識した。すると同じくらい強いネガティブがふとしたときに襲ってくる。…「ポジティブ」の裏側には同じだけの「ネガティブ」が存在する。
P326
サレンダーと諦めの違いは?
僕が思うに、一番大きな違いは在り方なんじゃないだろうか。明け渡し(サレンダー)は自分を超えた存在に対する信頼がベースにあるので、基本的に気楽で安心している。自分よりもっと大きなものに身を任せている感覚が、安心感とリラックスと、自己肯定感を生み出している。… 一方、諦めは「自分の力では太刀打ちできない」という自己否定感や、「こんなことになったのは他人のせいだ、社会のせいだ」という他者否定だったりして、大いなる生の流れを否定してしまう。自我(エゴ)の特徴である抵抗、執着、判断をしてしまう。
諦めの対極にあるのは、希望。
ポジティブの対極にあるのは、ネガティブ。
それらの二元性を超えた先にサレンダー(明け渡し)があり、それこそが老子のいう道(タオ、Tao)なのだろう。
より善い生き方とは
出来る出来ないではなく、
やるかやらないか。
そして、やり切れるかどうか。
やり切った先にサレンダーがある。
思考、論理、ロジックの先に思考では答えが得られないと知ることによって、思考を超えた言語化できない領域にたどり着くことができる。ただ、そのためには思考を突き詰めないといけないのだろう。
人事を尽くして天命を待つ。
大河に身を任せる生き方。
目の前で起こった事象をただ観察し、
善悪の判断をせずに、身を委ねる。
禅問答という論理的に考えても答えが得られないようナゾナゾがある。「両手で拍手するとパチパチと音がするけど、では片手でやるとどんな音がする?」。その答えは言語化できない。全てが正解だから。
仏教の修行は、悟りに捉われていけないし、悟りを開こうという思いに捉われてもいけない。さらには悟りに捉われないことにも捉われてもいけない
正法眼蔵
何もしないことを、する(Doing)
老子道徳経
捉われてはいけないことに、捉われてはいけない。
分別の先に、無分別智の境地がある。
その無分別智にも捉われてはいけない。
以前、お世話になっている先生に「この世界の真実は何でしょうか?悟りとはどのような状態、どのようになれるものでしょうか?」という質問をし、先生は笑顔でニッコリとしただけだった。
それだ、それこそが在り方であり、それこそが真実なのだ。
宇宙の外側はどうなっているのか?宇宙が生命の創造の連続だとすると、その初めは何なのか?(ビックバン or ゆらぎ?)というのは愚問なのだと気付いた。それは捉われに過ぎない。そうではなく、いまここの幸せ、家族との時間、それが答えであり、宇宙の本質なのだと。
ありきたりな言い方になるが、”愛”だ。本質は愛だ。
道(Tao)や大いなる何か、神、仏陀、悟りの世界、無分別智の境地など言い方は様々あるが、それは愛に満たされた世界なのだ、と。

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